1971 年 (昭和 46年) |
飯田卸団地新設と同時に本町2丁目より本社を移転し、名称を株式会社外松に変更 |
昭和40年代に入り、交通事情が変わり、車社会が到来しつつあった。本町通りが生鮮の市場や問屋街であった為に、特に取締りが厳しくなり、同時に非効率さも目立ってきて、卸団地の建設が具体化するに至った。
1967年に飯田市の指導により、進出希望問屋の申込みが始まった。当社としては、本町ビルの建設から3年しか経っていなかったが、2代社長は逡巡することなく決断した。その背景には、1967年に明治製菓の招待でハワイへ行き、アメリカの交通事情を目の当たりに見て、今後日本も交通事情が大きく変わると確信して帰国したことがあった。 1971年1月15日、設計・鈴木設計、建築工事・吉川建設により、卸団地に新社屋が完成した。物流機能を重視した新社屋であり、残業しなければ消化しなかった本町ビルと異なり、能率が上がって時間内に作業が終了し、且つ売上も伸長した。 また、卸団地進出に合わせて、社名を株式会社外松に変更した。 |
1971 年 (昭和 46年) |
増資 新資本金1,200万円 |
1972 年 (昭和 47年) |
松本地区に商圏を拡大する |
1973 年 (昭和 48年) |
本町3丁目倉庫を貸駐車場に |
1973 年 (昭和 48年) |
飯田市鼎切石に土地建物を購入、鼎営業所を開設し、地場製造菓子の販売、全国展開に |
半生菓子の県外移出部門は、卸団地進出後、400gシリーズの大ヒットもあり、すぐに手狭となり、本町の旧社屋にて営業をしていた。1973年に、飯田市鼎切石に土地建物を購入し、鼎営業所を開設し、本格的に全国へ半生菓子を移出する体制を確立し、伊那節ブランドを主力に急速に売上を拡大した。 |
1976 年 (昭和 51年) |
東京都足立区西新井に東京連絡所を開設 |
半生菓子の移出の増加に伴って、1976年4月に東京都足立区に東京連絡所を開設し、首都圏へ半生菓子がより早く物流される体制を確立した。 |
1976 年 (昭和 51年) |
増資 新資本金1,800万円 |
1979 年 (昭和 54年) |
増資 新資本金2,025万円 |
1979 年 (昭和 54年) |
社内報「わかまつ」発行 |
商品の企画開発を行うことを目的とした企画室会議の中で、社内報を作ったらどうかという意見が出され、12名の社内報編集員が指名され、検討が始まった。どのようなものを作ったらいいかわからない中で、大変苦労したが、7月26日に創刊号を発行することができた。名前は、社内募集して「わかまつ」と決定した。
以後、2005年の100号で終了するまで、社内のコミュニケーションのツールとして毎号の発行が楽しみに待たれた。 |
1980 年 (昭和 55年) |
増資 新資本金2,300万円 |
1982 年 (昭和 57年) |
創業50周年記念事業を実施 |
創業50周年を記念し、お得意先に対しては、石和温泉への大招待旅行を実施し、また仕入先を中心に大宮温泉にて記念式典を挙行した。記念式典では、頭の体操で有名な多胡輝教授の講演、創業社長の胸像の披露が行われた。 |
1982 年 (昭和 57年) |
松本市芳川平田に土地・建物を購入、松本営業所を開設 |
創業50周年を記念して、1981年に松本市平田に土地を入手し、翌1982年に念願の松本営業所をオープンした。初代所長には伊那営業所から常に第一線で戦ってきた、中山取締役(当時)が就任した。 |
1982 年 (昭和 57年) |
増資 新資本金2,760万円 |
|創業〜1951年 |1952〜1961年 |1962〜1970年 |1971〜1984年 |1985〜1992年 |1993〜1999年 |
|2000〜2004年 |2005〜2009年 |2010〜2015年 |2016〜2019年 |2020年〜 |
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