菓子本舗とまつ
株式会社 外松
長野県飯田市松尾上溝3014-12 飯田卸団地
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   目次外松の歩み>1952〜1961年

外松の歩み


1952 年 小麦粉の販売開始に伴い、登録商標「伊那節印」の乾麺を製造委託し、販売を開始
創業社長の長男修一が、三井物産に勤務していたことが、外松にとって多くのチャンスを得ることにつながった。1952年には日本製粉との取引が可能となった。
月15tを拡売してほしいという日本製粉の要請に対応する為に、宮下元常務は乾麺をPBブランドとして製造し、販売することに着眼し、伊那節印乾麺が誕生し、根強いファンを作るまでに伸長した。
1952 年 株式会社外松商店を設立 資本金200万円
創業社長 外松種二郎像 1952年12月1日、株式会社外松商店として、法人組織による第1期が資本金200万円でスタートした。役員は、初代社長 外松種二郎、専務 外松淳、常務 後藤浜三郎、監査役 白子範次郎・林正司の体制であった。第1期の売上高は1億4000万円、当期利益65万4000円であった。

1953 年 一般菓子の取扱いを開始
菓子問屋としての形態を整える為には、有名メーカーとの特約を取得することが重要であった。江崎グリコに5万円の取引保証金を積んで特約を取得し、池袋の佐久間製菓には10万円の保証金を積んだ。1953年2月には森永商事と、3月にはカバヤ販売、名糖産業と特約をした。1955年には雪印乳業が菓子部門に参入し、雪印バターキャラメルを発売した。在京中の創業社長の四男源司より、東京のデパートで好評であるとの情報で取引を始めた。
1953 年 自動二輪車と三輪車を購入
1953年、メグロ500佞涼羝甜動二輪車と三輪車が購入され、自動車時代へと急テンポで推移した。

1953 年 2代社長が花火事故で重症を
1953年8月15日、今宮郊戸神社の奉納煙火にみこしを担ぎ、参加していた2代社長(当時専務)は、今宮球場内で発生した煙火暴発事故に遭遇し、重傷を負った。死者3名、重傷3名の大事故であった。当時、飯田には整形外科がなく、長兄が東京の病院を当たって、東京女子医大病院にて手術を受け、右腕切断を免れた。ただ、療養とリハビリに時間を要し、1954年5月1日に再起を果たした。
1954 年 こけし印のハム・ソーセージの取扱いを開始、食品関係の販売にも力を入れ始める
1954年、三井物産(当時は第一物産)食品課からソーセージのサンプルが送られてきた。創業社長も半信半疑であったが、商社の勧めに従って拡販にかかった。1955年には化学調味料「旭味」の取扱いを開始した。味の素のネームバリューが強力な中、景品の魅力と拡販の努力が実り、徐々に総合食品卸の体制を整える方向に進んだ。
1955 年 静岡県水窪町に商圏を拡大
本社2丁目旧社屋にて 1955年、長野県と愛知・静岡両県にまたがり、当時としては大工事であった佐久間ダムが完成した。工事中の数年間は、現地で菓子・食品の特需が発生し、活発な取引が行われた。完工後は、水没する飯田線の付け替え工事が行われ、長いトンネルを掘削して、静岡県水窪町を迂回することになった。
当社も飯田線が開通後、直ちに商圏を水窪町一帯に拡大した。浜松の同業者と競合することになったが、飯田の特徴ある商品が受けて、順次安定した売上を確保するに至った。2代社長自ら朝一番の鈍行列車に乗り、見本箱を肩に佐久間駅に7時に到着し、終電まで、電車やバスを乗り継ぎ拡販に努力した。当時、飯田は目方売りで、一袋の単位も比較的大きかったが、水窪地方は個数売りで、単位も小さかった。
1957 年 アイスクリームの販売を開始
1956年、雪印乳業名古屋支店からアイスクリームの販売をやるように指導を受け、翌年より長野県下で初の雪印アイスクリームの販売を開始した。当時は、電気冷蔵庫がなく、魔法瓶にドライアイスを詰めて製品を販売した。155本の魔法瓶を天候に関わらず毎日巡回しなければならず、しかも容量が限定され、不効率なものであった。魔法瓶は、1962年7月に入荷した電気冷凍庫を契機として、次第に取り替えられていった。尚、伊那地区も当社のエリアとされ、中卸店を通じて得意先確保に努力した。
アイスクリームの取扱いにより、得意先とのつながりを濃くし、同時に新規開拓の積極化により、商圏の拡大に多大に寄与した。また、雪印乳業の乳製品の拡販にもつながり、食生活の欧風化と共に著しい需要増となった。雪印乳業の特約は当社の食品部門に重厚さを加えた。
1959 年 愛知県方面に商圏を拡大
国道153号線に沿って、県境の根羽から愛知県の稲武、足助方面(現在の豊田市)へと商圏を順次拡大していった。

1960 年 NCR160号会計機導入、事務の機械化を推進

1961 年 三六災害が発生し、福田常務が被災
1961年6月22日から降り続いた梅雨前線による集中豪雨は、27日になって各河川を氾濫させ、飯田下伊那地方に多大な災害をもたらした。死傷者も多数出て、家屋や田畑の流出し、国鉄飯田線も、各国道も不通となって、完全に陸の孤島となった。
折悪しく、福田常務(当時)が26日に大鹿村へ出張していた。豪雨に遭って暫時帰社を見合わせていたが、見通しがつかない為、29日に郵便配達員の先導で大河原の旅館を出発した。その時、大西山が大崩壊し、鉄砲水となって大河原一帯を襲い、小渋側をせき止めた。福田常務は大西山の崩落から逃げ切れずに土砂に埋もれてしまった。幸いなことに、気がついた時に頭上に光明を見て、這い上がることができたが、背骨を傷めて動けず、対岸にいた村民に救助され、九死に一生を得た。翌日ヘリコプターで伊那中央病院に移送され、2ヶ月余りの入院で退院することができた。

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